昭和43年11月19日朝のご理解

ご神訓「生きても死にても天と地はわが住処と思えよ」

天地は私どもの住処である。しかも生きても死んでもそうである。この世にこうして生のおかげを頂いておるというておる時だけではなくて、死んでもなるほど天地より他に行くとこはあるまいと、これは誰でも一応分かることである。極楽だ地獄だというても、天国または根の国?底の国?というても、天地より他にはない。天地より他に行くところはないんです。

そこで私どもはですね、ここにそこんところが分からせてもろうて、また分からなければならないことは、その天地をね、いよいよ住みよい天地にするということ。住まい良い、気持ちの良い、まあ言うなら明るい住みよい社会づくりといったようなことを申しますね。この天地をいよいよ明るい住みよいところに。自分の住まいというものを思うてみるといい。できるだけ気持ちの良い住まいにしたい。これはみんなが同じ。散らかっておりゃあはわく、汚れておりゃあ拭くと、というように、銘々自分の住まいを綺麗にしたいというそういう心で天地を住みよいものにする。天地を住まい良いものにする。

私どもが、この世でその天地を住まい良いものにするというか天地を清めるというか、そういう人たちの上に私どもがですね、あの世で住まい良いところに住まわれるという、そこに理が成り立つように思うですね。ですから、この世に人生わずか50年と申しますけれども、まあ本当にそうですね。物心がついて、まあ言うなら50年。いろんな道理が分かるようになって50年。その50年間の間をです。天地を清める、天地を明るいものに、住まい良いものに。

言わば、天地に奉仕をする。それとは反対に自分とこの住まっておる天地を清めるどころか汚す、真っ暗にする。そういうような例えば人がね、生きても死んでも天と地はわが住処と思えよとこうおっしゃる、その住みよいあの世に行けれるはずはない。
この世でほんとにそこを分からせてもろうて、清めさせてもらい、住みよいところにさせて頂く働きをね、一生懸命させて頂いた人の上に、あの世での住みよい、まあそれを仏教的に言うなら地獄極楽とでも申しましょうかね、言わば極楽に住むことができる。わかりやすく言うならそうです。そこで、生きても死にても天と地はわが住処と思えよと、まずここが分からなければ。

この世でだけおかげを頂きゃええ。この世でだけお金に不自由しない、健康であればよい。そこにです、いわゆる利己主義的信心があるわけです。いわゆるおかげだけの世界の信心があるわけです。ご利益本位ですね。これは金光様の信心でもそういう人が多いんですよ。自分がおかげ頂きゃいい、おかげだけ頂きゃいい。自分が楽になりさえすりゃあいい。自分方んとがようできりゃあいい。というような私は信心からですね、天地を自分の住まいと悟らせてもらい、その天地をきれいに清め、明るい社会を作って行くことのために貢献する、奉仕をする。

私は、今朝のみなさんご祈念しておる間に、ここでこんなことを頂いた。子供をおんぶしておるんですね、ある人が。小さい赤ん坊をおんぶしてる。その赤ん坊が、後ろの髪をこうやってからその、何て言うんですかね、髪をかがってる?、負われとる赤ん坊が。そういう姿を心眼に頂いたんですがね。そして、今日の御教えを頂こうと思うたら、この「生きても死にても天と地とはわが住処と思えよ」というところを頂いた。そして、昨日のお月次祭の後に頂いたご理解とそれとこれとを思い合わせてから、みなさんに聞いてもらっておるようなことになった。ですから、そこんところが一つ皆さんの頭に入っとかなければ、今日のご理解の本当の神意がわからない。

生きても死にても天と地は、なるほど自分たちの住まいだなと。その住まいならば、自分の住まいであるならば、自分の例えば、家をきれいにすることは誰でも率先してするように、その自分の住まいであるところの天地を清めよう、それを住みよいところにしようと、明るい社会にしようというような願いを、まず私どものそれが住まいであるということが分かれば、そうしようという気にならないけん。

そういう明るい社会づくりというか、そういう天地を明るい天地というか、清まる天地を目指して私どもが生活をさせてもらう。これは天地の親神様の願いである。これは天地の親神様の願い。そこで、その願いに沿うことになる、第一。そこで、神人を求め給うということになるのです。そういうことがわかって、そのことに奉仕のでけれる人を求め給うのです。神様が清めようと思いなさっても、神様はできなさらない。

いわゆる、神様の願いである、神様の思いである、その願いが、思いが、私どもこの地上に成就していく成っていく。その神様の願いが成就していく、その願いを受けて立つのが人間である。その願いを受けて立つのが人間である。その受けて立つそのことが真の信心。ご利益を頂く、おかげを頂くという信心は、だから真の信心じゃないことになる。真の信心せずして真のおかげの頂けるはずはない。わかりやすく、まあその時例えるとかつて申しましたように、この世でです、私どもがこの世をいよいよ住みよいものにしておって初めてあの世で住みよいところに行けるのです。

この世を汚くしたり、汚したり、汚したりしておる者が、良いところに住まわれるはずがない。いわゆる、この世でそのようなことを知らずに、または知っておっても平気で世の中を乱したり、汚したりするような者がです、言わば、あの世で極楽に行けるはずはないというのである。そこでその神の願いであるところの、天地を明るい、同時に清まった天地を願いとしての生活が成される時です。初めて、神様の願いがそこにね、少しずつでもそこから清まる働きというか、明るくなるというか、そこに神様の願いが成る、成就していくわけである。

そこで私どもがそのようなことを言うなら分からせて頂いて、本気でそういう天地を清めることにならしてもらい、そういう神様の願いであるその御用に立たせて頂こうと思うてもです。赤ん坊をおんぶしておって、まあちょっと考えてみてください、大したことはできゃあしませんよね。心が焦るばっかり、したいと思うけれどもできないでしょう。まあもし、両方手に何も持ってないならちょっとしたものを持って提げるくらいのことなんです。

いわゆる図から働こう、図から行こうと言ったようなことを申しますよね、体全体をその仕事なら仕事に打ち込もうということができません。子供をおんぶしておっては。
その子供というのが、私はどういうことかというと、銘々がかろうておるところのめぐりだと思わせてもらった。めぐりのためにいつも病気をしておる。これでは、社会づくりにも、言わば世の中を清めようにも清めようがないでしょう。いつもめぐりのために、言わばいろんな苦しみに苛まれておってです、そうした神様の願いに応えて立つことは不可能である。

そこで私は願いを立てなければいけない。神様、私が不健康でありましては、神様の御用に立つことができません。神様、私が貧乏いたしておりましては、神様のお役に立つことができません。そのために、億万長者にもならせてください。どうぞ健康にもならせてください、家庭平和円満のおかげも頂かせてくださいということになるのです。だからそれはやっぱり願い、そういう願をしっかりせなければいけんのです。

けれども今日私が申しましたところをです、分からせて頂いてのその願いでなければ筋が通らんのです。ただ儲けをさせてください、ただ健康にならせてくださいだけじゃいけんということ。私に財力があるならばです、その財をもうほんとに思う存分神様にお喜び頂けるような御用に使わせて頂こうものにと思うても、その財に恵まれなかったらできないです。この五体で、本当に存分世の中を清めることの働きをさせて頂こうと思うてもね、思うても、前にも行けんように、後ろから後ろ髪引かれるように後ろの赤ん坊がこうやって髪を引っ張るならできないでしょう。そこで私どもがです、この赤ん坊をですね、赤ん坊ずい?そのめぐりをですね、お取り払いを頂くことの願いが必要になってくるんです。そこに大分筋道が立ってくるわけですね、信心の願いが。

昨夜のご理解の中ではっきりそこをわかせて頂いたことは御用とは確かに御用だ。御用だと。神様がこういう、例えて昨日の例を持ってすると、ここに植樹、造園をなさろうという働きが、ここに機が熟したという感じがする。そのための委員会がでけた。そこへ行けば、ここに行っても言うならば、置いた物を取るように、すべてのことが順調に運んでおるというところを見ても、私どものそういう願いを聞き入れてくださる。神様の願いがそこに成就していこうとしておる働きを感じんわけにはいかん。そういう神様の働きにね、おーと応えて立たせてもらうことを持って御用だと、昨日は頂いてから確かにそう、御用とはそれだと思った。

それをよくよく考えてみるとです、いわゆる明るい社会づくりというか、難儀な氏子を取次ぎ助けられることのための場としてです、例えばですね、話を聞くばかりが能ではないとおっしゃる。または話を聞いて助かる道とおっしゃる。お広前に、昨日でしたか、一昨日、三橋先生とこの通勤所の方が、ちょうど三橋先生がこちらに来ておる時にお参りをして見えた。脇殿から上がって、だんだん廊下を通ってここにやらせて頂く間に胸がいっぱいになってきた。障子を開けて入った途端に、もう込み上げんばかりにここに感動した、感激したっち。

そういう何ものかがここにはあるということはです、言うなら、こういう一つの建物なら建物の中にでもです、そういう気が配ってある、心が配ってあるからです。よその家とは違う、普通の住まいとは違う。ですからどうでしょう、例えばお広前があそこにあの守り?の中にあると。その守り?が見え出したら、もう心が感動するようなおかげを頂けることが分かる。

ここが例えば、うっそうと ? のようなものになるといたしましょうか。例えば外が散らかっておったり、汚れておったんではです、心を汚しこそすれ、心が清まるはずはない。それを神域と申しますがね、その神域に一歩足を踏み入れた途端に心が清まるような思いをする。手を洗うて、言わばお広前に進んだら、いよいよそのありがたさが、はあ、信心ちはただここへ来たばかりでもこげん感動するということになるのです。そして、願うことがなくなったというほどに感激しておられました。

そしてから、ちょうどてんやわんやしておる時でしたから、客殿に通して、久冨さんがお茶を出してくださりよった。そして言われることがです、もう初めてお引き寄せを頂いて、お参りをさせて頂いたのにです、先生、ここから今日は何か動くごとないごとありがたかちゅって言われます。そういうものがここにあるのです。それはそういう雰囲気があるというだけではなくて、そういう例えば建物の中からでも、そう思わせなきゃおかんと言ったようなものがあるのじゃないだろうか、そこにまたお互いの工夫もあったわけである。

なるほどそういう工夫がなされたんですね。例えば、脇殿からここまでこうやって来る時に、もう窓が高い。せっかく手を洗うてさあ今から神様に向かおうというのに窓が低うてから外が見えるごたる空気は心が散る。だから私が窓を高うしてくれと。もうここまでに来る間に神様へ向かう心ができることのためにそうしなければいけない。といったような工夫が、言わば払われたわけなんです。

ですから、植樹、造園と言ったようなことでもです。言うならばここに人の難儀が取り次ぎ助けられることのできれる場としての、私は当然それは必要であるということなんです。お伊勢さんなんかに参った人たちがね、あの五十鈴川?ですか、で、手口をゆすぎ、そしてあの、自ずと頭の下がるような神域というものの雰囲気がそこにあるからなんです。そして、中がいよいよ神々しいまでのお宮がそこにあるからなんです。同じことなんです。そういう、しかもそれがです、言うならそれだからやろうと言うたんじゃいかんのです。

私はこれは本当に失礼なことになるかもしれんけんど、昨日私はそれを痛感したことがあるんです。というのは、昨日、久保山さんが、昨日が銀行への支払日でございました。いつもそうです。それでもう、それこそ、置いた物を取るようにして、来ていつも言うものですから、今日もそのつもりで今日は支払日ですからとこう言う。私がいつも忘れる。いくら払わなんとかね?と言うたら、五十何万払わんならん。はあ、今月たくさん、まあ例えば払ったがあるじゃろうか。帳尻を見て、その日のお初穂をして、合わせたところが四十何万しかない。今まで払わなければならんのが払えなかったということは昨日が初めてじゃった。十万円足らなかった。

あらこりゃ茂さん足らんと。ならどうか銀行に相談しましょうと言うて、まあ行ってくださったんですけども、そのことを、神様にいろいろ私はお詫びさせて頂きよった。そしたらですね、私が今度善導寺の初代の三十五年の式年祭に使わせて頂いたお金だけが足りんのです。いかにも神様が喜んでくださることのようにあるけれども、とにかくね、式年祭じゃからこげんせんならん、あげんせんならんと、言わば人間がただ立ち上がっただけのことにぎょうししたから、使ったからです。

そこで、言うならです、まあ言うちゃ悪いですけれども、ここの場合なんかは、いつも神様が立ち上がってござることに打ち込むから、ここではごうしゅう?があったからと言うて、人が財産を渋ったという人がおらんでしょうが、それだけ足らなくなったということがないでしょうが。

本当に例えば、初代、荒巻先生はです、そういうことを願って求めてはおられなかったということなんですよ、言うなら。そりゃ真心こそ、私どもがいっぱい使わなきゃならんけれどもです、あちらで計画されたですね、こげんせんならん、あげんせんならんというてできるという、しかも私はそれがスムーズにもうできたと思うたところが、昨日ハガキが来た、あちらから。そして、今度の21日に今度はそのことのためのまた委員会があるから、ぜひ出席してくれというそのハガキであった。

してみるとこれは、まーだこれは言うならば、まあ足りなかったばいなと私は思っておるわけでございます。これは本当に例えばそれを使わせて頂くでもです、これはよくよく神様のお許しを頂き、お詫びを、もう神様事じゃけんよかと。こういう気持ちはあったですけれども、これはいけないなということを、昨日私は本当に痛感したんですよ。そこで、んならね、本当の御用じゃなかった、神様が立ち上がってござる仕事じゃなかった。人間が立ち上がってやろうちゅうただけじゃった。

これはだから御用のようにして御用にあらずですよ。御用というのは、どっから見ても、これは神様が働きかけて、働きかけてござる、働きござると感じること。それを例えばこの昨日は、夕べ秋永先生が、この委員長のまさき?さんが説明しておりましたようにです、神様の働きを感じんわけにはいけないというような働きが感じられる。それにおーと応える、そのことを持って御用だというようなご理解だったですね、夕べのご理解は。

生きても死んでも天と地はわが住処と思えよ。その住処をいうなら清めるということはどういうことなのか。その天地を明るくするということはどういうことなのか。神様の願いがここに地上に成っていく、神様の願いが地上、ここ合楽に成っていく。そのことのために奉仕する、そのことのために貢献する。ところが、こんなに体が弱おうては、言うなら、祭場?の御用でもできません。ために、どうぞ健康にならせてください。こういう素晴らしいことが思い立たれておるのに、現在のように経済状態が苦しくては何の御用も立ちません。どうぞ、そういう御用に馳せ参じさせて頂けれるおかげを頂かせてくださいという願いなら、筋が立つ、おかげが頂ける。これなら、いくら願うたっちゃいい。

そういう御用に、お役に立ちたい立ちたいという願い。そのことがです、私は天地を清めていく、自分の住まいを清めていくということに繋がると私は思うのです。夕べのご理解を頂いて、そして、今日私が頂きます、お役に立ち、御用に立ちたいと思うても、赤ん坊どんおんぶしとったっちゃ、なかなか思うことがでけんと。ためには、この赤ん坊を降ろさせてもらうだけのその難儀というものをはずして頂く願いを立てなきゃいけない。

金で、金のことで頭がいーっぱい。いわゆるもう他のことに頭を使うことがでけない。そうでしょう。いろんな難儀を感じておることで晩も眠られんごとある。と言うて、そういう御用がここにあるからと言うても御用に立つことはできないでしょう。ですからここんところをひとつ見極めたい。御用ということは、神様のお喜び頂けれる御用であるということを見極めて、神様と言わばあいよかけよ、神様も立ち上がってござる、機が熟した、そこに私どももその御用に打ち込まして頂くと。

そこに神様と人間氏子とのあいよかけよの働き合いがです、いよいよ社会を清めていくところの働きがでける。働きということ、私どもはこの世に働きにきとるとだと、いうふうに言う人があります。もうまさしくそうです。私どもはこの世に働きに来ておるのである。私どもはこの世に傍を楽させることのためにこの世に生まれて来ておるのである。だから働くとがまど?が違う。そうにあの人はがまださっしゃる。ばってん、てんでもう自分のことのだけ、ため、ことのためだけのがまだしである。それはもうがまだし。いわゆる儲けだしよると?。いくら儲けても儲けがいる。

傍を楽させてからのそれでなからにゃいけん。働くというその本当の意味はそういう意味だと言われております。そんなら傍を楽させるというこがです、世の中を清めたり、明るくしていくことになるのでございますけれども、自分ががまだすためにです、周囲を暗くするような場合があります。それこそ、自分の儲けになることなら、人の食べておる茶碗でも叩き落としてからでも自分が儲かろうとすることなんかはまさしくそれです。

生きても死にても天と地はわが住処と。確かに住処だなとひとつ分からせて頂いたら、その住処を本気で清めようという心にならなければいけません。なら清めようということに、ことはどういうことかと言うと、神様の願いに応えて立たせてもらうことだという。ならおかげを頂きたいけれども、これがあっちゃ身動きもできん、これがあっちゃ手もでらん。それではできんのですから、そこで健康を願い、商売繁盛を願い、金銭のお繰り合わせを願わせて頂くというのなら、これはいわゆるご利益信心のごとあって、実際は真の信心ですから、痛いこと、痒いことすべてのことが、神様に願われることが筋道にたっての願いになってくるのです。

言うなら神様が喜んでくださっての願いになってくるのです。そこんとこの根本のところが分からず、腹入れせずにです、どうぞ健康にならせてください、金持ち、金にお繰り合わせくださいと願うてもです、それはなるほど地団駄踏むように言うて願うからおかげはくださったにしましてもです、それが天地を清めることにはならないのです。自分の住まいを美しくしたいのは誰でも人情です。ようにです、私どもが住まわせて頂いておるこの天地をね、少しでもです、自分の周辺だけでも清めていこうという働きがね、なされる。そこに私はお道の信心があると思うんですよね。どうぞ。



※昨日、植樹、造園のための委員会ができたとご理解されている
※玄関からお広前にかけて窓を高くされたのはなぜかをご理解されている